新米か古米か それが問題だ
昭和の日本、外国の特派員が来日した後輩を連れて大相撲観戦に行きました。
お昼になりお弁当をひろげます。幕の内弁当ですね。先輩が「日本人はなにから食べると思う?」後輩が頭を捻ると、「見ていろ、彼らは蓋の裏についた米粒から食べ始めるぞ」
私もお茶碗に残った米粒はお茶を注いできれいに食べます。おばあちゃんに言われましたから、「お米粗末にしたら目がつぶれる」て
確かに日本人にとって「米」は特別な思い入れのある食物です。なにせ我が国は「豊葦原の瑞穂の国」(稲が豊かに実り栄える国)ですから。
コメは奇跡の穀物、連作ができるし、肥料だっていらない、おまけに生産力も高い、そして味をつけなくてもめちゃくちゃ美味しい。これぞ神様の恵み、日本人で良かったなぁ。
ようやく減反政策はやめるらしいですが、お百姓さんの暮らしが成り立つようにするのは政治の役割、食料安全保障の最たるものはコメの安定供給です。コメすら自給できないようなら、いったい有事にどうするつもりなのか。なければ外国から買えばいい、なんて新自由主義的な考え方は、大陸が虎視眈々と台湾を狙っている今日、全く現実的ではありません。
我々世代はさすがに飢えた経験はありませんが、戦争を経験した親世代は食えない苦しさをよく話してくれました。スーパーに行けばなんでも売ってる、そんな日常が永遠に続く保証はないのです。
そういう意味では令和の米騒動は良いきっかけになったのかもしれません。
「お父さん、お米もうないから買ってきて」
近頃は和歌山のスーパーでも備蓄米を見かけますが、そろそろ新米も出始めました。新米か、古米か どちらを買うか、それが問題だ。トホホ。